「南海トラフ地震臨時情報(巨大地震注意)」(※)が発表された翌日、ぱんだパパと2人で、福島県にある東日本大震災の震災遺構に車で向かっていた
(※)日向灘の深さ31キロを震源とするマグニチュード7.1の地震が発生し、宮崎県日南市で震度6弱の揺れを観測した。この地震を受けて気象庁は南海トラフ地震の想定震源域で大規模地震が発生する可能性がふだんと比べて高まっているとして、「南海トラフ地震臨時情報(巨大地震注意)」を発表した。(NHK Newszwebより一部抜粋)
(今日、8月15日に「南海トラフ地震臨時情報」の呼びかけが終了)
夫婦ふたりで旅行したのは、親になって初めて!
ちょうどチタちゃんとトラ君が、教会の中高生の韓国訪問ツアーに参加しているタイミングだったので、夫婦ふたり旅行に行くことにした
ちょうど台風が東北を直撃する前だったのもあり、予定を変更して、東京から車で3時間程度の北方面内でホテルを探し、予約した
当初の旅の目的は東京が暑すぎるので、1000メートル以上の高原に涼みに行こう、那須あたりがよさそう、と東北道を向かっていた
途中のSAで、ぱんだパパが「そういえば、震災遺構にも行けるよ」とぽつっとつぶやき、私が「それがいい気がする」と急遽、行き先が変わった(笑)
高速道路のSAで配布している地図を見ると、「帰宅困難区域内は原則通行不可」と赤字で記載がある
高速道路を降りて、一般道を走った
「帰宅困難区域内」の通行が可能な道を通ると、所々、警備員さんが立っていて、おそらく間違って侵入しないようにしているように見えた
道の左右は、「帰宅困難区域」、目で見ても、他の地域との違いはわからないけれど、草むらの奥の方に、一部が崩れたり、壁や瓦がはがれている家があちこちにあった
(左側は、道のあちこちに見かける通行止めや通行制限中の表示
右上は草むらの中の家、右下は双葉町にある双葉郵便局)
(↑「この先 期間困難区域につき通行止め」の標識とバリケードが、通り道のあちこちにあった)
向かったのは、福島県の請戸(うけど)小学校
「帰宅困難区域」に割と近い場所にある小学校で、今は廃校になり、震災遺構として一般公開している
海岸から300メートルのところにある小学校で、新しく作られた堤防はすぐそばで、2階の窓から見える堤防の向こうには、台風接近に伴う高波が押し寄せるのが見えた
(↑赤丸が津波浸水深の地点、高い!)
(↓左のステッカーが貼ってるのが、右の階段の上の赤丸の場所)
(左より、地震が起きたのは14時46分
右より、小学校がある浪江町に津波が到達したのが15時33分、暫定津波高は15.5m!
(↑上は東日本大震災の概要、下の左図は震度分布図、下の右図は津波警報)
(↑上の写真は地震後津波襲来前で家が密集しているが、下の津波後はほとんど何もなくなっている)
(↑上の写真は震災前の航空図、下は地震直後の写真で、小学校の建物のみ残っているように見える。小学校から、下の写真の大平山まで徒歩で避難したそうだ)
小学校の建物の中に入ると、13年前のそのままの状態が残されている
津波で破壊されているのが、全国どこの小学校にもある施設なので、身近で怖い
(↑左側は小学校の教室、右上は体育館の床が剥がれており、右下は昇降口に鉄板などが積み上がっている)
津波のすさまじいパワーを目の当たりに見て、言葉を失う
(↑左上は複合盤が壁から引き剥がされており、右上は鉄の柱がくの字に曲がっている。
左下は津波で曲がったプールの手すりと右側はその説明 )
絵本「請戸小学校」(左下)の場面と一緒に、その時を再体験する
児童たちと教職員が避難したのは、Googleマップで徒歩25分ほどの、大平山
2年生から6年生の足では、30分以上かかっただろうか
(上の写真)校長先生が、地震の8分後に避難を決めた。海沿いの小学校だからこそ、決断が早かったのだろうか
(右下の写真)途中で保護者が引き取りに来ても、子供を引き渡さずに逃げ続けたのがよかったのだろうか
子供たちは海から遠ざかるために垂直に逃げたが、絵本には海と並行に逃げる車の列、、車だから逃げ切れただろうか
2階の展示も充実しており、地震発災から時系列に、何が起こったか理解できた
震災10年後に当時の小学生たちが書いた作文
(時計は、津波がきた時間で止まったままだそうだ)
震災遺構(小学校)のパンフレットをもらった
・福島県浪江町請戸小学校
・宮城県山元町中浜小学校
・宮城県石巻市門脇小学校
・宮城県石巻市大川小学校
「帰宅困難区域」の周辺は、場所により放射線量が明らかに違っていた
(↓左の写真は、常磐自動車道で「帰宅困難区域」の上を通ったとき、右上は双葉町に入る前の一般道、右下は常磐自動車道の南相馬ICのあたり)
ちなみに、震災遺構に行こうと思ったのは、きっかけがある
娘のチタちゃんが、去年の夏(高校2年)、教会のお姉さんと中高生たち(希望者)と福島ツアーに行った
教会メンバーも、メンバー以外も、初めて会う中高生が集まり、震災遺構を見に行ったあとに、交流して一緒に福島県の海で泳いだのが、処理水を放出した時だった
正直、最初聞いた時は、母としては複雑な思いだったけれど、教会のお姉さんと話して、彼女が何を考えているのか、日本の未来を考えてやろうとしていることだと理解し、納得し、信頼して、チタちゃんを託した
2泊3日の福島ツアーから帰ってきたチタちゃんの価値観が、行く前とは180度変わっているのを見て、適切な指導者の元で、子供たちが見て、知って、感じることがとても大事だと、若者の柔軟さとパワーの大きさを感じた
福島ツアーから帰ってきたチタちゃんから「ママも、震災遺構を見に行った方がいいよ」と1年前に言われた一言が、私の心に残っていた
13年前のその日、私は、トラ君を妊娠中に東京で外出中に東日本大震災に遭い、大きいお腹をかかえ、5歳のチタちゃんの手を引いて数時間歩き、夜になって帰宅した
数ヶ月後にトラ君が生まれ、出産までも、出産後も、空気や飲食品の放射線の汚染におびえながら過ごしたので、あまり思い出したくなかった
今回、震災遺構に向かう時も、心が抵抗して、息苦しさを覚えたりもして、気が重かったけれど、思い切って行ってよかった
自分ごとにして、向き合うべきことだったことがわかった
自分の目で見ないとわからないことがあるし、写真や映像だと伝わらないこともあるから、見るべきものだったとわかった
震災後13年後と遅くなったけど、見てよかったし
校舎内まで雨風が吹き付ける震災遺構(小学校)ができるだけ長く維持され、少しでも多くの人たちが見ることができるとよいと強く思った
過去記事
「311、7年前のその日」(2018年3月11日)
【母娘ふたり旅 伊勢志摩編】
伊勢志摩編(2)「熊野古道ってなんだっけ?(世界遺産を徒歩でめぐる 松本峠から鬼ヶ城センターまで)」
伊勢志摩編(3)「断崖絶壁の鬼ヶ城(世界遺産を徒歩でめぐる)」
伊勢志摩編(4)「七里御浜、獅子岩、花の窟神社(世界遺産を徒歩でめぐる)」
伊勢志摩編(5)「伊勢志摩サミットの場所へ(世界遺産をめぐる)」
【母娘ふたり旅 伊豆下田編】
【夫婦ふたり旅 伊豆下田編】
(1)震災遺構(福島県の請戸小学校)に行き、帰還困難区域と津波災害について知る
(2)東日本大震災・原子力災害伝承館で、原子力災害について知る