(一般病棟の夜、その1から続く)
約半年前、あっこママが入院したのは
365日24時間、患者を引き受ける大病院の一般病棟だった
夜中でもサイレンが近づいてきて、
窓の下に救急車が止まることがたびたびあった
大部屋(6人部屋)では
自力では動けない寝たきりの老齢の女性がおられ、
咳が止まらない年配の女性が一晩中テレビを見ており、
手術をしたばかりの若い女性の荒い呼吸が聞こえてきた
隣の病室からは、叫び声(寝言?)や
苦しそうな唸り声が聞こえてきた
頭痛と目の痛みで眠ることができず、
寝たり起きたりしながら、
考えが深まった
入院する前も、退院した後も、
この病院だけではなく、世界のあちこちの病院で
このように苦しんでいる人たちがいる
呼吸ができなくなって苦しみながら死ぬのは嫌だし、
痛くて死ぬのも嫌だし、
ずっと寝たきりで自由がなく、
動けないで死ぬのも嫌だなぁ(怖がりのあっこママ)
さらに、
目の前にせまった死を恐れながら、
死んだ後に何があるかわからない不安に
つぶされそうになりながら
最期の日々を過ごすのはどれほどつらいだろう
そして、
肉体の死の苦しみを越えた先にある世界が
自分が考えていたのとは違って、
さらなる苦痛の世界だったら
どれほどのつらさだろう
聖書に、肉体を「土の器」に例えている
新約聖書(コリントⅡ 4:7)
「わたしたちは、この宝を土の器の中に持っている」
この「土の器」がくだける時、
一体何が残るんだろう
この地上のものは、何一つ持っていくことができない
「土の器」がくだけるのは、数年先か、数十年先か、
いずれにしろ、100年先にはもう跡形もない、
自分に残された時間は、ほんのひと時しかない
摂理に出会い、神様のことを知るようになったから、
肉体がなくなった後のことを知るようになったから、
肉体の死の先にある世界のことを
やみくもに恐れることはなくなった
そして、人間が生まれた目的(創造目的)を知り、
肉体がある間にただその時を楽しむのではなく、
肉体がなくなった後の世界のために生きること、
霊のために生きることが大事だと御言葉で教えてもらった
でも、実際の生活に翻弄されながら、
どれほど霊のために生きてきたんだろう
がんばって走ってきたつもりだったけれど、
神様から見て、主から見て
どれだけ、その考え通りに、御心通りに生きてきただろう
自己流に考え、自己流に行い、
肉的なこと、表面的なこと、形式的なことをして、
やった気になって自己満足していたのではないか
今日は生き、明日は死ぬかもしれない命、
チョンミョンソク先生は、
神様に1つ1つ聞きながら、
「明日死んでも悔いがない生」を生きておられるけれど、
そのような生を自分は生きていないと
改めて感じ、反省した
次に病院に入院する時は、
ひょっとしたら最期の時かもしれない
その時までどれだけの時間が残されているのか、
私にはわからないけれど、神様はご存じだ
深く反省し、
もう一度、やり直そうと思った
生と死、自分の生き方、いろいろ考えて
退院したら、退院した数日後の主日の御言葉が
「私に学びなさい」だった
もう一度、いちからやり直そう、
もう一度、学び直そう、
そう決心した
あっこ