宗教二世を育てるときに、私が大事にしてきた4つのこと by あっこママ
毎日毎日、子どもと向き合い、
ばたばたと過ぎていく日常の中
(特に夏休みはバタバタの頂点(^_^;))
小学校中学年以降は
口は偉そうなことを言うけれど
家でだらだら、ぐでぐでな子供に
怒ってばっかりの毎日で
何かえらそうに語れるような現実はない(^^;;
それでも、子供を育てる時に
私が大事にしていることは何だろう
思春期真っ只中の
女子大学生と男子中学生、
宗教二世を育てる親として
改めて振り返り、考えてみた
なお、宗教二世といっても
人間として成長過程にある子供を
守り、育てることだから
何か決まりや、特別なことがあるわけではなく
また、同じ教会に通っていても
家庭ごと、夫婦の間でも
考え方も、優先順位も、価値観も、人生観も
実に様々、まったく違っていて
あまりに違いすぎて
子供関係1つをとっても
対立したり、ぶつかったり
心に傷を与え
傷を受けた過去もあるから
これは、あくまで
私が大事にしたいと思っていること
母親になってからの18年間を振り返り
私が試行錯誤しながら
時にはドツボにはまったり、
失敗をしながらも
大事にしたいと思ってきたのは
4つ(3つ+1)のことだった
(1) 親が周りに流されないこと
(2) 子供を認めて、信じて、待つこと
(3) 子供自身が選ぶ自由を尊重すること
そして
(4) 愛を伝えること

(1) 親が周りに流されないこと
乳幼児の時はマイペースで、
比較的のんびり気楽に過ごしていたけれど
幼稚園以降は
周りが見えてきて
窮屈さを感じるようになった
幼稚園に入ったら
周りの子供たちは
小学校受験のお教室に行ったり
英語、体操教室、プール、体操
サッカーや野球、バレエやチア、
ピアノやバイオリンなどなど
忙しく習い事をしている子供も多く
(過去記事より 女の子と男の子の習い事)
自分の子が何もできないように感じて
焦りを覚えた
ママ友との付き合いも
楽しいし、心強いけれど、
わずらわしさもあり
ボスママが気に入らない人を次々と仲間はずれにしたり
ママ友グループが対立して喧嘩をしたり
ドラマさながらの修羅場も目の当たりにした
(過去記事より 幼稚園ママのもめごと)
子供たちは純粋でかわいいけれど
ママ友たちの世界が窮屈で
自分の子供と他人の子供を比較をしたり
習い事や
受験(有名な学校に入るかどうか)などで
他人の芝生がとても青く見えたりして
自分の子供をそのまま見ることができなくなり
子供ができないこと、足りないことが目についてしまったり
心がもやもや、ざわざわし、落ち着かない気持ちになることが多かった
だから、ある時から
周りに流されないようにしようと心がけた
ママ友たちとも適度に付き合い
ある程度、価値観が近いママ友と仲良くした
それは今も同じ
たくさんの習い事をさせたり、
インターナショナルスクールに入れるほどの経済力はないし
かといって、子供を1対1で楽しませる能力もないから
公園や、自然の中
動物園や水族館など
神様が創造したものを見せて体験させようと、
できる範囲で、たくさんお出かけをした

教会の中でも
価値観は家庭ごとに、実に様々で
さまざまな場面で
「え?」と思うこともあれば
私が良かれと思ってやったことが
批判されたこともある
幼稚園や学校のママ友も
教会のママ友やメンバーも
他の人の価値観
人の目に縛られて
人に左右されて
生きるのはイヤだから
神様にお祈りして、
神様に聞きながら
家族で相談しながら
我が道を行こう
他の人とは違う価値観で生きても大丈夫
自分の子供が、何ができるかできないか、何を持っているか、持っていないか、ではなく
神様が任せてくださった子供たちだから
神様が与えてくださった個性を発揮して幸せに生きてほしい
そのように思えるには、
ある程度の強さと
達観という名の「諦め』が必要だった(^_^;)
それは、子供が思春期に入った今はもっとそうだ
(2) 子供を認めて、信じて、待つこと

これが本当に難しくて、
今も、できないことも多く
後悔ばかりだけど(^_^;)
大事だと思って
心がけていること
日々の生活の中だけではなく
まだ見えないその子の個性を認めて
その子の時が来るのを信じて
その時まで待つこと
これがとても難しく
自分の忍耐力のなさと器の狭さを
痛感することが多い(^_^;)

例えば….
子供たちが集まった時
積極的な子たち、
反応が良い子は
よく目に留まるし
大人たちからも褒められることが多い
学校で、手を上げて発表する子の方が
先生に褒められることが多いのと同じ
うちの子たちは、
そういうタイプではなく
よく言えば周りをよく見るタイプ
小さい時から
どこかに連れて行っても
ただ見ているだけのことも多く
何のためにここまで来たのかと
もどかしく思うことが多かった

教会でも
お祈りが得意な子
よく発言する子
聖書をたくさん読む子
夢や魂で天国に行ったと話す子
絵や楽器が上手な子
サッカーが得意な子
(うちの教会は、サッカーが好きな大人と子供が多い)
大人たちから見て評価しやすい子
すごい!と褒められる子たちがいる
どちらかというと
やはり、うちの子たちは、
そういうタイプではない
「やってみれば?」と声はかけるが
やるかどうかは本人次第
無理にやらせても逆効果だと
ある時点で気がついて諦めた(^_^;)
子供たちは
神様が本人に与えた才能と個性があるから
いつか、それが見つかりますように、
と祈りながら
バタバタしている日々が続いていった

チタちゃんは高校生になってから
花が開いたように活動的な子になった
学校の部活や課外活動にリーダーとして参加し
学校を飛び出して世界を広げ
高校の担任や校長先生にも一目を置かれた
教会の活動にも
積極的に参加して
舞台でダンスを踊ったり、歌ったり
生き生きと忙しく過ごし
その勢いのまま
大学生になっても、毎日忙しくしている
小さい時は、長い人生の一コマにすぎず
あの焦り、イライラは
意味がなかった、とわかった(^^;;
神様は一人一人を個性的に創造された
同じようにお出かけしても
チタちゃんは動物が好きになり
トラ君は乗り物が好きになった

チタちゃんは、じっくりじっくり見るタイプ
和歌山のアドベンチャーワールドに行った時
大好きなパンダの前で
雨の中、1時間以上も見ていたこともあった
一方、乗り物が大好きなトラ君は
お目当ての電車を見たくて
何台も何台も待ち続けて
集合時間に遅れちゃうことも(^_^;)
外出時の交通係はトラ君で
交通手段、経路など全てお任せできて頼もしい
子供たちを見ていると
神様が与えた個性に優越はないから
大人の価値観で勝手に判断してはいけないと思う
それでも、普段の生活では、
不必要な一言を口にしてしまって
後で後悔する(^_^;)
思春期の子供たちと接していて
この「認める、信じる、待つ」が
本当に大事だと思う
今も、子供たちが
思いっきり反発するのは
私がそれができないときだから
(3) 子供自身が選択する自由を尊重する

子供は経験値が少ない分
わからないことも多く
判断できないことも多いから
親が決めることも多いけれど
幼い時から、小さな選択は
本人がするようにしてきた
幼稚園の時から
その日着る服
はく靴は自分で選び
何を待っていくか
お出かけ先で、どこに座るか
暇な休日に、どこに行くか
可能な限り、子供に決めてもらう
「次は、どうしたい?」と
聞くのが習慣になり
今では、私が自分で決められない人になった(笑)
小学校に入ったら
旅行に行く時の
自分の荷物は自分で準備する
(小学校低学年のときは手伝ったし、
小学校中学年までは、学校の修学旅行だけはチェックし
小学校高学年以降は、頼まれたら確認する)
習い事も、結果的に
本人が続けて嫌がったものは、退会した
(さすが、その時の気分では退会しません)

例えば・・・
うちの教会の男子は
サッカーをやってる子が多い
トラ君の小学校の友達は
野球をやっている子が多い
男の子なら、サッカーか野球やるのが
当然と思っているような
ママ友や教会メンバーもいそう(笑)
トラ君もサッカーを習わせていたけれど
トラ君を見ていたら
サッカーで試合をすると
いつもボールと逆の方に逃げている
トラ君に聞いたら、小さな声でぽつり
「サッカーボールを蹴るのは好きだけど
試合は、みんな集まってくるから、いやだな」
トラ君の話と様子を見ていて
平和主義で、人と争うのが嫌いだから
敵と味方が殺気立って密集するのが嫌なようで
トラ君と話して、
サッカースクールはやめて、
区のテニススクールに通い始めた
(教会のサッカーは平和なので参加して楽しんでいる)
テニスは、敵はコートの反対側にいるから心地よいみたいで
その流れか、中学は卓球部に入り、楽しんでいる(笑)

チタちゃんの高校は、自分で選んだ中高一貫校
私は情報を集め、条件を比べて
彼女に合いそうで
親が許容できそうな学校いくつかを見つけ
本人と一緒に見に行き
その中で、自分に合いそうな中学を
本人が決めたのは、小6の11月だった
(ギリギリで決めたので、私は大変だった・・・)
塾の先生に勧められた併願校(1月の前受け校)も
「どうせ行かない学校は受けても意味ないよ」
とのことで
「ここなら行ってもいい」と言った学校だけを受験した
高2のとき、チタちゃんに
「学校の友達と話していると、
うちの親はかなり自由だって感じる。
でも、自由は責任を伴うんだよね。
そのことを今度スピーチで話してもいい?」
と聞かれたので
「どーぞ」と答えたけど
スピーチしたかどうかは、聞いてない(笑)
チタちゃんは高校生で通った塾も
大学受験のときに通った塾も
親に相談はしたけれど
学校の先輩に聞いて
自分で調べて、自分で足を運んで
自分で決めた塾に通った
大学受験の時
親に相談はしたけれど
大学を受ける方法(総合型か一般か)も
志望校も併願校も全て自分で決めた
私が「あの大学の方が良くない?」と言っても
「うーーん、この大学が好きだし、行きたい」
と言った大学に通っている
親ができることは
子供の味方になって応援すること
例え、
親が好ましいと思えない道だとしても・・・
(それについては、後述)
(4) 愛を伝えること

愛を子供に伝えるのは
簡単なことではないけれど、
とても大切なことだと思う
小学校の先生と話していたら
子供たちの問題の8割以上は
愛の問題だと思う、と話していた
(愛の問題といっても、いわゆる異性との恋愛の愛ではない)
私の両親は、
今思えば力の限り愛してくれたけど
私は、神様に出会うまで
愛を正しく理解することができず
愛の欠乏症で、
愛されていることに自信が持てなかった
私は子供のことを
心の底から愛しているけれど
普段の生活の中では、
生活を回すのが精一杯で
その愛を伝えることは難しい
神様を信じている私が
親として一番すべきことは
「神様も親も
あなたのことをとても愛している」と
伝えることだと思う
でも、口から出る言葉は
「これを食べなさい!」
「ちょっと!早く、早く!遅れるよ!」
「宿題やったの?」
など、愛には、ほど遠い言葉ばかり(^_^;)
1日の終わりに
反省することばかりの日々だ(^_^;)

私が知っている神様は
太陽のように、いつも強烈な愛を降り注ぎ
夕日のように、優しく穏やかな愛で包んでくださる
私が何かができるからとか、
私が何かを持っているからとかではなく
私の存在そのものを認め
受け入れ、愛してくださっている
その上で、
私がもっと成長することを願い、
個性を認め
個性通りに導く
うまくできないこと、失敗することも
たくさんあるけれど
悔い改めれば(悔い改め=反省)
広い空のような寛容さで許し
時を待って、機会を与え
またやろうという感動を与え
状況や環境を整えて
私が自分の力を発揮できるように
助けてくださる
神様の存在に目が開かれ
神様の御働き、愛を正しく知ることができたら
誰でも神様の深い愛に感動し
神様を愛するようになると
私は、確信しているから
親が伝えられる限り
子供に神様の愛を伝えていきたいと思っている
(実際の生活の中では、なかなか難しいけれど)

そして
もし子供たちが
正しく神様の愛を感じられないとしたら
それは、
親が、周りにいる神様を信じる大人たちが
うまく神様の愛を伝えることができなかったから・・・
目に見える世界で生きている子供たちが
目に見えない神様を信じ、愛して生きることは
簡単なことではないけれど
目に見える親や
周りの人たち
万物(自然、生き物、物事、現象など)
様々なことを通して
子供たちが
自分が愛されていることを確信して
愛することを喜びとする
愛に満たされた
幸せな人生を生きてほしいと願っている
もし子供が教会に通わないと言い出したら・・・

自分が信じている宗教を
子供たちにも信じて欲しいかと聞かれたら
答えは Yes !
自分がいいものだと思って信じているから
愛する子供にもいいものだと思って欲しい
だから、子供が「教会に通わない」と言ったら
とても悲しいし、苦しいと思う
小学校低学年までは
子供は親が喜ぶことをしたいと思うから
そのような葛藤はなかった
でも、小学校高学年から
親に対して反抗したり
嫌悪感を示したりして
「うるさい!」とか
「ばばあ!」とか
言われるようになった(^_^;)
私が悲しくなったり、怒るのを見て
「だって、そういう気持ちになるんだもん」と
チタちゃんは解説してくれるので
子供が健全に成長している、と思いつつ
寂しく、力が抜けることも多い
いろいろなことに反発して
教会に行かない、と言われる可能性が
ないとは言えない、と思っている
だからといって
人の心は自由だから
何かを信じることを
強制できるものではない
教会に通おうが、通うまいが
大事な愛しい娘だし
大事な愛しい息子だということは変わらない
「自分の人生だから
自分で決めるしかない」
その一言に尽きると思っている
親ができることは
ただ神様に御心通りになるように祈ることだけ
そして
子供に神様の愛が伝わるように
親を通して
少しでも神様の愛を感じられるように
子供によくすることだと思う

私自身が
親がひいた線路の上を
走ってこなかった
聖書を学び
神様と出会ったとき
親はNOと言って
大学生の私を認めず、信じず
力づくで阻止し
行動を制限して
教会に行くことを禁止したけれど
神様に向かう私の心を止めることはできなかった
私は
親がわかってくれないことを悲しく思ったけれど
親が言うことよりも
自分のやりたいこと
今思えば
神様がくださる感動通りの道を選んで
今まで、神様を信じて生きてきた
親は先に死ぬのが自然の摂理だし
子供の人生の最後まで責任は取れない
本人が自分の人生を生きるから
本人が神様と相談して
決めるしかない
神様は人間に自由意志をくださったから
本人がその自由意志を持って
神様を信じ、愛して
神様と共に生きる生を選んで
人生の最後まで、神様を愛して生きてほしい
そう思って、見守っている
終わりに・・・

コロナが明けてから
大学生や高校生の子供がいるメンバーと
お茶をしたり、話したりすることが増えた
あるパパさんは、子供の卒業後の進路について
「それで食べていけるのかって心配になるんだけど、本人が選んだことだから、お金を出すことにした・・・」
と、複雑な顔をしながら話してくれた
そして
「子供は嬉しそう。自分がやりたいことを親が認めてくれたから、だろうね」
と話していたのが印象的だった
親が期待した通りの道ではなく
親が首を傾げるような道に行こうとする子供を
心の底から応援できるだろうか
身を粉にして働いて貯めた
それなりの額の資金を
こころよく投入できるだろうか・・・
正直、なかなか難しいなぁ
その時が来たら
心で受け入れられなくて、反対するだろうし
未熟な私は
その気持ちが態度に現れちゃうだろう・・・
でも
心の底からは無理でも
子供の気持ちと選択を尊重し
結果的に応援できるように
がんばるしかない、、、と思う(^_^;)
ここからが親として、信仰者として試される場
正念場は続く・・・
(2022年8月1日の記事をリライトしました)
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