2○年前の4月25日、摂理で御言葉を聞いて、修了式に参加した。
大学生だった私は、
元々クリスチャンでもなく、
神様にお祈りしていたわけではなかったし、
聖書を勉強したいと思ったわけではなかったけれど、
ひょんなきっかけで摂理の御言葉を聞くようになった。
摂理の御言葉を聞いているうちに、
最初は知識として聞いていた聖書の話が、
自分が小さい頃から探していたものを見つける鍵だと、
どこかで、ぼんやりと感じるようになり、
1つ1つ御言葉を聞き進めるようになった。
聖書の御言葉を聞き始めた最初から、
親が反対しており、
修了する前数ヶ月は教会に全く行けなかったから
ようやく参加できた修了式、
久しぶりに足を踏み入れた教会で、
久しぶりに直接聞くことができた御言葉、
久しぶりに会った摂理の仲間たち、
その全てが私にとって、貴重で、とても感動的だったっけ。
宗教嫌いで、聖書の勉強をするつもりがなかった私が、
なんで、教会に通うようになったんだろう・・・
最近、いろいろと過去のことを考えていたら、
その時も御子が助けてくださったと悟るようになった。
希望した大学に入り、好きなサークル活動をし、
大好きな海外旅行にも行き、
適当に友達とも付き合い、刺激を受け、
希望したゼミにも入り、
欲しいものは得ていたけれど、
思い出してみれば、
摂理に来る直前の心はとても孤独だった。
友だちも、仲良しだった親も、
誰も、本当の自分の心はわからない、と諦めていた。
でも、摂理で出会ったある人と
心がぴったりあって、心が解放された。
私の心にひだがあるとしたら、
そのひだにぴったり心が合う人が存在していて、
自分のことを全てわかって、受け入れてくれる、
そのことが、孤独だった私の心をうるおした。
人間としてその人を尊敬し、
その人と話したり、
聖書の話を聞いたりすることが嬉しかった。
でも、今、過去を振り返ってみると、
その人は、私の心にピッタリ合う人ではなかった(笑)
今はもう摂理にいないけれど、
摂理にいる時から、私と全く気が合う性格ではなかった。
でも、あの心がぴったり合った感覚は、今も残っている。
その人とは心が合わないけれど、
私の心にぴったり合って、
強烈に宗教嫌いだった私に御言葉を聞き続けさせたのは
誰だったんだろう。
最近、ああ、あれは御子だったんだ、と悟った。
聖霊様がくださった感動だった、と。
その人を通して、
御子が直接、私の心に働きかけてくださったから、
御言葉を聞き続けて、修了し、
今も摂理にいることができるんだ。
私が生まれる前から計画し、
私が生まれてからずっと見守っていたから、
親よりも、友達よりも、私の心にぴったり合う方だったんだ。
修了式から2○年たった今日、
私としては思いがけなく、
長年やりたかったことに関する集まりに、
オンラインで参加することができた。
修了してから2○年間、
いろいろあって、
時には崖から落ち、死の淵を歩くこともあったけれど、
ずっと見守ってくださり、
自分にとって大事な日に
しるしを見せてくださった神様、
私は神様を見たことはないけれど、
確かに存在していて、
私の心の奥底までわかって、
働きかけてくださっていることを実感している。
主日の御言葉を通して、
過去も今も、神様が自分に働かれたことに気がつき、
改めて、心から神様に感謝した。