つれづれ

摂理を走りながら仕事をすること


仕事についてもがいていたときの日記より。

愛ゆえになさねば一切は無益だ。
コリントⅠの13章の聖句がそのまま悟れてびっくりした。
いつもながらずっと叫ばれていることを悟るとき、いかに人は鈍くてその心情を痛めていることかと思う。
最近悟った大きなこと。根本的な問題への答え。根本的な間違いへの気づき。
1、すべては愛ゆえであり、愛ゆえになされるし、愛ゆえになさねばならない。
肉的な能力や、役に立つとか立たないとかではなく、使命がどうのではなく、天が見ているのはそれらをどういう心で行うかという「真心、愛」
人は見えるところ、人間の世界の価値観で見るから
(そもそもここが根本的に間違っているということを認識しないといけない。全部ではないが、ベクトルがちょっとだけずれている。だから間違ってないのに間違ったものになった。それがサタンのやり方だ。)
できるできない、有益無益の尺度で行いや言動や自分を見がちだ。そこが根本的に間違っているということに気がついた。
天が望んでいるのはそこではない。
なぜなら神様は全知全能なので、そういった能力的なものは必要があればどうにでもできる。
お金持ちが何でも買えるのと同じ。
神様は誰よりもお金持ちだと思えばいい。
買えないものはないのに、売り場のものを切望する必要はない。
欲しければ買えばいいのだ。買えるのだから。
ではなぜそれを望むか。
愛する人がいて、その人が自分のことをどれぐらい愛しているのか見たい、そう思ったとする。
そこであえてお金がないのを知っていながら、それが欲しいといってみたりするようなものではないだろうか。
ちょっと感覚的に女心に近いかも。
たとえば給料日前で食費も危ういのに、わざとプレゼントにどうしてもあれが欲しいとねだってみたりする。
恋人が給料日まで食事を抜いてでも、「君のためなら」といやな顔をせずに買ってくれたら、それがそこまで欲しかったわけではなくてもものすごく感動するし、その人の人間性や自分への愛がゆるぎないことが分かって、むしろ涙して、「いいの、あなたの心がわかったから」とメロドラマのごとき展開が予想される。(イサクが捧げものになる話がまさにそうだが。)
一瞬笑ってしまったが、事実、天が求めている恋人関係とはそういうことかと悟る。
そういう二人の愛の世界が展開されてこそなのだ。
そこにはだれも入っていけない。
傍からみたらベタ過ぎて引きそうでも、本人たちは本気である。
そういう次元を天と展開しなければならないということだ。
たとえば今夜はデートだとする。仕事は上の空。時計の針も待ち遠しく何度もちら見する。
そして終業と同時にいそいそと出かける。
残業?見なかったことにするしかないでしょう。
明日大変でも、上司に怒られても、そんなの一瞬掠めるぐらいで心は恋人に会うことでいっぱい。
もう今このときを味わうことで先の不安はかすんでしまう。
一見あまりの愚かだ。
しかし恋とはそういうものだ。
そういうふうに礼拝を心待ちできているか。
否。
愛の次元が低いということに他ならない。(ここでそれを愚かなことだと思うのがまさに肉の考えだし、肉的に計算するなということだと思う。)
だから「なんでこいつ自分より金持ちのくせに、金がないのを分かっていてねだるんだ?」
なんてなったらおわりだ。
けんかして終わってしまう。
どうしてそうなるか。
ねだったほうの心情を知らないからだ。
やはり心情が通じ合わないといけない。
確かに一方はお金持ちだったとする。
だからずっとおごったり、いろいろ買ってあげたりしてきていた。
でもそのうち不安になるだろう。
それゆえに自分を愛しているといっているのではないだろうか。
だから試したくなる。
その愛を見たくなる。(おお、ヨブの話。)
天は私たちを愛するために作ったし、同じように私たちから愛を受けるために人間を創造された。
天は愛を十分に注いで下さったし、注いでくださっている。
だから私たちからの愛を見たいと、表現して欲しいと、要求を出してなにがおかしいだろうか。
そう考えると至極当然であり、全力で表現すべきものだ。
ましてその機会を指定されているのであれば。
できる、できない。役立つ、役立たない。
それらははっきりいって天の前であまり関係がない。
もちろん御心の進行の上では支障があることもあろうが、極論、自分と主との関係性に、そういった肉的能力値はさして重要ではない。
ようはできなくても愛しているからやるかどうかだ。
「愛しているから」ここが最重要ポイント。
だからパウロ先生もどんな力ある業をしても、信仰があっても、命まで差し出しても「愛がなければ一切は無益」といわれただろう。
なぜならその行為自体ではなく、その行為を行うにいたる心を見られるから。
堕落を考えてもそうだ。
聖書にもあるとおりだ。
「愛するなら私の掟を守りなさい」とおっしゃった。
掟を守るかどうかという行為を通して、その掟を守ろうとする心、すなわち愛を見ているのだ。
愛しているといっても、別なことに心がいって、言い訳して、行わなければ、結局他のものが大事なんだと(仕事が忙しくてデートをすっぽかされて「結局私より仕事が大事なのね!」というのと同じか)みなされるのだ。
まったくもってその通り。
天秤にかけて、他のものがもっと重いから、結局「愛しているけど。。」になってしまう。
そこに重さがなかったわけではない。
決して軽かったわけでもない。
でも、たった0.000001mgでも他のほうが重ければ、そちらが結果的に優先されるのだ。そういうことだ。だから100%が求められる。完全に一体となるためには。
根本的な考えを変えないといけないということに気がついた。悟った。
主のための仕事ではないということ。
もちろん、すべては主のためだ。
それはあっている。
でも、この仕事自体が『主のため』と思うと、どうにもこうにも違和感が禁じえない。
もっというと『主のため』という言葉に対する考え方自体を自分の中で変えなければいけないということだった。
この仕事が主にどのように役立つというのだろう?
どんな答えをあげてもある意味では正しいかもしれない。
でも結局誇示付けだ。
核心的ではない。
だから揺れやすい。
もっと根本的に考えないといけない。
主はどうして私をこの仕事につくようになさったのか。
もっと言ったら、主はどうして私にこの道を歩ませているのか。
そこまで考えないと答えが出なかった。
表面的では何でももろいものだ。
すべてがキリストの岩の上に立たないともろい。
すなわちそれは別の言葉でいえば「救いの観」ともいえるのかと思う。
すべてが自分の救いのためであるという観。
絶対的愛ゆえであるという観。
聖句を思う。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことに感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。(テサロニケ5:16-18)」
これが答えだ。
『キリスト・イエスにあって』というのがポイントだなと思う。
基本的に神様は人間を愛の対象体として想像されたのだから、悪くするはずがないのだ。
(この絶対的信頼がある意味絶対条件であり、愛であり、信仰だと思うが。)
だからメシアを認めて信じてそのうちにあるのであれば、いつも喜んでいなさいとおっしゃるからには、喜べる状態にしてくださっているはずだし(そうではないのに無理やりそうしなさいとはおっしゃらないはずだ。)喜んで欲しいと思っていらっしゃるわけだ。
肉的に仕事について考えてみる。
仕事を選ぶとき、人は通常、自分の何かしらの夢や希望や将来的展望を持って職業を選択する。
それは仕事内容に限らない。
働き方も含め、トータルな意味で自ら選択するはずだ。
つまり、そこには自らの意思が必ずある。
多くの会社があり、どういう理由であれ、自分でそこを選択して受けたのだ。
だから受かって入社する。
自分がまず選んでそこを受けなければ絶対に受からないのだ。
だとすれば、仕事には必ず何かしらの自分のポジティブな希望が含まれているはずなのである。
それがなされ、それをなす。
それが仕事だ。
だから仕事は神様が個々人に下さった祝福のはずなのだ。
どういう形にしろ。
つまり、何がいいたいのかと言えば、仕事はある意味「自分のため」の仕事なのだ。
自分が喜び楽しむため、甲斐を感じて楽しめるように天からもらったプレゼントなのだ。
神様的にはたぶんなんでもいいのだ。
でも私の個性がこの仕事を喜び、私が甲斐を感じ、生かされ、成長できる、つまり私の益になるから、神様はこれを私に下さったわけだ。
だからこの仕事でなにかしら『主のため』に役立とうとするとそもそものベクトルと異なるので矛盾が生じる。
では、『主のため』とはどういうことだろうか。
「~のため」と言う言葉を考えてみる。大辞林では
(1)役に立つこと。利益になること。
(2)(形式名詞)
助詞「の」「が」を介在させて体言と、あるいは用言の連体形に接続して用いる。助詞「に」を伴うこともある。
(ア)その物事が理由・原因であることを表すのに用いる。ゆえ。
(イ)その物事を目的とすることを表すのに用いる。
(3)ある物事に関することを表す。…にとって。…に関して。
とあり、往々にして(1)の利益的意味に捉えがちであることに気がつく。
しかしながら着目すべきは(2)の助詞「の」を介在させた意味で、『主のため』とは実にこちらの(2)の意味を有している。
ここからは感覚論になるのであくまで参考であるが、今回の仕事については(イ)で解釈してみたい。すると、『主のため』とは『主を目的とする』となり、言葉を補足すると『主に向かうことを目的する、主と一体になることを目的とする』と考えることができる。
ここまでくれば結論は見えている。
仕事は主のために役立つことではない。
主に近づくための手段でしかないのだ。
そしてその手段は個性によってその人に一番益になるように天が導いてくださっているわけだ。
だから『キリスト・イエスにあって』こそ『喜びなさい』が成り立つ。
ベクトルの執着点は能力的有益ではなく、主だ。
だから主にない人はその喜びを享受できない。
結語といこう。
仕事は主に近づくためのものである。
極論でいえばその内容が主に関係ないものでも全然かまわない。(実際そんなものは存在しないが。)
いかに本人がその仕事を通して主と近くなるか、またそれがそのためのものであると分かって感謝できるか、楽しめるか。
主は喜ぶと思ってくださったプレゼントである。
喜んで感謝して主と一緒に楽しんでこそ、その甲斐がある。
近くなるためのポイントは「一緒に楽しむこと」だと思う。
自分が感謝して楽しまないと主とも楽しめない。
また、逆に言えば主と一緒ならどんなことでも楽しめるはずなのである。
こうして私はようやくすっきりと書類を作る。
この仕事は嫌いではない。
ではどのように主に栄光を帰そうか。
どういうところに私は楽しみを見出してこの仕事をするか。
主と対話しながら探すのも乙なことだなと思う。
非常に贅沢なことだ。
祝福されていることだ。
核心は愛だ。
その仕事より、その心を見るし、捧げてほしいし、結局自分の救いのためだ。
救われるには主と一体になること。
この世のすべてはあくまでツールで目的ではないことをいつも忘れてはいけない。
だから真理を知ってこそ人は万物を納めることができるのだなと悟った。
嗚呼、真理。真理は人を自由にする。ハレルヤ。

 


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まりも
人生にさ迷っていた大学院時代に北の大地で摂理に出会い、散り散りだった日々がまりものように丸くまとまり始める。その後、仕事で首都圏へ。湖に帰りたいと泣きながら激務によりいっそう練達され、大分美しい球状に近づいてきた。近年、暑さに弱いのに日本有数の暑さを誇る地に嫁入り。負けじと光合成に励み、子まりもを増殖。3度の流産にもめげずに第二子、第三子を出産。現在は阿寒湖のように懐広い夫と共に三人の男子まりも、まーちゃん、ひーくん、あーたんの育児に奮闘中。