つれづれ

がんと死との向き合い方。私が信仰を持つようになったきっかけ


こんにちは、まりもです!

たまたま調べ物をしていたら
ちょっと昔のNHKのクローズアップ現代で、癌について取り上げられた番組の記事を見つけました。

あ、その前に
色々調べる時は、その情報を鵜呑みにしないことが必要だと思います!
特にネットの記事は出所をしっかり確認したほうがいいです。
私は病気のことは基本、がん専門の病院のページしかみません。それか医学書です。
情報に振り回されないこと、選別することは大事だと思います。
あと、私が気をつけているのが
特にがんは正常細胞から変異したものなので、人によってみんな個性や体質がバラバラなように、がん細胞も個人差が大きいと捉えて、あるケースが自分にも100%該当するとは考えないようにしてます。
つまり、育児書みたいに、必ずしもそれが自分に当てはまるとは限らない、正解はない。あくまで参考として、あとは主治医としっかり話し合う。
情報はあくまでも医師やスタッフさんに相談するための材料として捉えています。
初めてすぎると頭がついていかなかったり、何を聞いていいかわからないから、そのための下調べみたいな感じ。

だから私の記事も、あくまで私の体験記として読んでいただけたらと思います。

さてさて、そんなわけでたまたま見つけたクロ現の記事がこんな感じ↓

[2人に1人が“がん”になる時代。患者の3分の1が“現役世代”だ。いま、“がん”と告げられた後、適応障害やうつ病を発症し治療に影響が出るケースが多発していることが分かってきた。医師たちは、心が不安定になる告知後の“魔の不安定期間”の過ごし方次第で、その後が大きく変わると指摘する。番組では“不安定期間”を乗り越えていこうとする、ある40代夫婦に告知から密着。“がん”と告げられたとき、私たちに何が必要なのか考えていく。]

これを読んで
なるほどー
たしかにー
と思いました。

やっぱり告知後(私の場合は生検出る前から悪性の可能性が高かったから見つかったときだけど)が一番落ちたなぁ。
まさにここでいう、不安定期。

死ぬかもって
いきなり現実に死が突きつけられる瞬間

でも、人は誰でもいつか死ぬことはわかってるはず。がんじゃなくたって、1秒後には事故で死ぬこともある。
つまり、死があることはわかってるけど
考えてないんですよね。
自分に、それが起こることを。
いや、考えないようにして生きている、ともいえるかもしれない。

そこで思い出したんです。
私が小学生くらいの時に持った疑問。

なんで生き物は生まれた瞬間から死に向かって歩んでいくのか?

なんでいつか死ぬのに、生きなければならないのか?

生きる、ということはどういうことなのか?

哲学的な問いに見えますが
その頃、学校で一冊の本を読んだことを覚えています。
タイトルはわかりませんが、世界が終わる最後の日に木を植える話でした。

これが私には理解できなかった。

いや、世界が終わるとしても何かを残そうとする姿を美しく、感動的に表現した作品であることは、理解できたんです。

でも、無意味だな
と思ってしまったんです。

そうしたら、そもそも人間もいつか死ぬのに、終わりが来るのに?
することすべてがむなしく感じました。
死後功績が認められる?
本人が死んでるのに?
それって本人には何が意味ある?

そういうことが疑問で疑問でしかたなかった。

でも
誰も答えを教えてくれない。

中学生くらいになると
これは聞いてはいけないことなんだなと思うようになる。
大人たちは嫌な顔をする。理解できないと。
決定的だったのが美術の授業。
目標をレタリングでデザインしようというものだった。
私は
「意味」
という言葉を選んだ。
全ての意味を知りたかったから。
でも先生はそれこそ意味がわからないから別な字にするように迫った。
折れずに突き通したけど、、
だって理解できなくても私の考えはこれなんだから
相手がわからないという理由だけで、自分の意見を変えたくなかった
理解する努力をしてほしかった
でも、先生はすごーく困った顔をしていた。私はあの顔が忘れられなくて
もうこういうこと考えちゃだめなんだなーと自分の中で諦めた。
みんな答えを知らないんだ。
でも見ないふりして生きていくんだ。
それが知恵なのか、、、

私は少し大人になった
そういうことにした

そう、もともと「死」はいつも自分にとても身近なものだった
いつか、必ずくるものとして
向き合い、準備すべきものだった

再び疑問が爆発したのが大学院のとき

色々なことがうまくいかなくて
「死」を見ないふりして、仕方ないから自分でなんとなく勝手に作ってきた、人生の目的も粉々になって

自分は何をするために生まれたのか?
どのように生きることが、もっとも意味ある人生なのか?

疑問が爆発する。

死を意識する事は、同時にいまある残された生を意識する事。
死を見ないふりするということは、生についても、漠然とあるがままにいきることになる。

私は再び、死というゴールを考える。
それまでに歩む道の意味を考える。

そして、聖書に、キリスト教福音宣教会のバイブルスタディに出会った。

そこで初めて、この問いに、明快な答えを与えてくれた。

人間は、肉体だけの存在ではない。
肉体を通して、霊魂を変化させ
その変化に応じていく霊界が変わる。
つまり、必ず終わりのくる肉の人生は
永遠に生きる霊体を作るための期間であり
肉体の人生の結果は永遠に霊で受ける。

死は終わりではない。
そこで全てがなくなるのではない。
この肉の生の結果は霊がすべてうける。
この人生はむなしくない!

これがわかってどれほど嬉しかったか
わたしはいまでもその感動を忘れることはない

だから癌になったとき、落ちたけどすぐ上がれたのはここだとわかった。
信仰を持って生きているということは
ある意味「死」とちゃんと向き合って生きているということ。
だからいきなり「死」という現実に飲み込まれてしまうことがない。

現実の不安、将来の不安
今生きてるからそれはあるけど
とりあえず、一番大きいとこを押さえている
これが強い。

スピリチュアルペインという言葉をご存知でしょうか?
WHOの緩和ケアにも出てくるんですが宗教的背景もあって、日本ではまだまだ遅れている分野のようです。

【人は健康なときには死のことなどを忘れて生活している。 しかし,死が迫って来ると,人生の意味への問い,生きている目的,過去の出来事に対する後悔,死後の世界などへ関心をもち,人間はこの関心事を追及し,苦悩を持つ。】

これ、日本はもとはガン末期のケアから入ってきたものみたいなんですが
結局、告知後の不安定期の根底はこれと同じなんじゃないかと思ったりします。

だから私はがんになる前に、信仰持っていてよかった。
ちゃんと死と向き合って生きてきてよかったなと思いました。

それはいつ訪れるかわからないから。

生と死
人間として生きる意味

一度もこの問題を考えなかった方はいないのではないでしょうか。
病気のいかんに関わらず、本当は誰でもが向き合わなければならない
先送りしてはいけない問題なんじゃないかと思います。


ABOUT ME
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まりも
人生にさ迷っていた大学院時代に北の大地で摂理に出会い、散り散りだった日々がまりものように丸くまとまり始める。その後、仕事で首都圏へ。湖に帰りたいと泣きながら激務によりいっそう練達され、大分美しい球状に近づいてきた。近年、暑さに弱いのに日本有数の暑さを誇る地に嫁入り。負けじと光合成に励み、子まりもを増殖。3度の流産にもめげずに第二子、第三子を出産。現在は阿寒湖のように懐広い夫と共に三人の男子まりも、まーちゃん、ひーくん、あーたんの育児に奮闘中。