ちょっとご無沙汰してしまいました。
4月はなにかと世の中が騒がしいですね。
ワタクシも一応、摂リウーマン(摂りーまんにかけてみました)なもので。
って、実はそんなに忙しい訳ではないのでが(笑)
先日、職場の近くでひとりご飯を食べていました。
そのとき思い出したのです。
私は昔、食べるということが本当に嫌だったことを。
それは 食べる=命を頂くこと であるからでした。
自分が生きる意味が分からず
自分の価値性が分からなかったので
他の生き物の命を頂いてまで
自分が生きるということが
本当に苦痛でした。
直接食べなくても
自分という存在があるという時点で
自分の受けてる分の物は
他のヒトが受けられないから
自分の分さえも
ヒトの分を奪ってる感じがして
本当に存在してることが毎日苦痛でした。
それで一時、拒食症になりました。
でも、私のこの考えを
理解してくれるヒトは
当時周りに誰もいませんでした。
先日、某牛丼屋で
時計とにらめっこしながら
牛丼をかっこんでいたときに
そのことを急に思い出しました。
なぜよりによってこのタイミングで?!
まあ、それはわかりませんが
とにかくその時、私は改めてそのことについて考えてみたのです
それではっきりしました
牛丼を米と牛肉に分けて考えます。
牛肉を食べるためにはいかにも牛を殺さなければなりません。
その命を頂きます。
じゃあ米はどうでしょうか。
米も花が咲き、実ったところで刈り取ります。
命を頂きます。
でも、そのままにしていても
その実は落ちて土に帰ります。
命は終われば土に帰るのです。
牛も同じです。
私が食べなくても
牛が死ねば牛の肉は土に帰ります。
その牛が生きるはずだった分
命を頂くことに
変わりはありません。
しかし、そのままにしていても
結局は土に帰る身です。
私自身もそうです。
肉は必ず土に帰るのです。
そしてまた
土から生まれるのです。
もちろん、ヒトはヒトから生まれますが
その材料は土からから生じたもの、つまり植物をもととして
それを食べて育つ動物を食べることもしかり
土から得る訳です。
有形の世界の
物質は有限です
あるとき隣のヒトの体にあった原子が
いまは自分を構成しているかもしれない
そう言う世界です
だから
命は命で循環するもの
土から生じたものは土に帰るもの
そういうことを
改めて悟りました
真理はヒトを自由にする
その御言葉を胸に
あらためて感謝して食事をしました。
そして
そのようにただ循環するだけの
物質として生じたならば
人間として自分が生きるということは
どういうことなのか
その根本についても
御言葉ではっきり教えて下さったこと
そのために今は生きることができることを
本当に感謝しました。
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