中学校の頃、ひろこママのあだ名は
『お地蔵さん』またの名を『金魚のふん』
これは裏のあだ名。
つまり軽い「いじめ」ですね。
ひろこママは中学校の時
『クラスで一番暗い子』
クラス写真を見て、この中で誰が一番暗かった?
と聞いたら口をそろえてひろこママだと言うでしょう。
今となっては、誰にこのことを話しても信じてもらえません。
今のひろこママは、180度違うように見えるから。
なぜこんな名前がついたのかというと、
一言も話さないから。人のあとばかりついていくから。
当時、自分の思っていることを表現することができず
友達と会話する輪の中で
頭の中に話したいことが思い浮かんでも
友達にどう思われるかが気になって
自分の意見に自信がなくて
言葉が出てこなかったのです。
人の目を気にすることは、誰でもあるかもしれません。
あの人にこう思われたらどうしよう。
こう言ったら、この人にこう思われるかもしれない。
100人いたら100通りの考え方をする人間。
自分の周りに10人がいて、
10人それぞれにどう思われるか
どう判断されるかを気にしていくと・・・
自分の発言・行動は
あっちへコロコロこっちへコロコロ変わってしまい
軸がない状態ですよね。
ずーーーーーと、ひろこママはそんな生き方をしていました。
摂理に出会うまでは。
摂理の御言葉を聞いていくうちに、
ひろこママの人生の問題が一つ解決しました。
人の目を気にして生きる生き方から
神様の目だけを気にして生きる生き方に転換しました。
100通りの人にあわせるのではなく
完全な方、公義の神様に合わせればいいということに
気づきました。
それからというもの、
人の意見に流されることはなくなりました。
ふらふら揺れることはありません。
ただ、公義でいらっしゃる神様が主がどう見ていらっしゃるのか。
それが中心です。
ただ神様、聖霊様、御子だけが「公義の裁判」をなさる。
(鄭明析牧師の明け方の御言葉より)
どんな人間も、300年前を生きることはできず
300年後のことも知ることはできません。
『地動説』も現代を生きる人ならば、
誰もが正しい理論だと知っています。
しかし、『地動説』が出てきた頃は
すべての人々が『間違っている』と判断し、
裁判でもそのように判断されました。
何事も、私たち人間が判断することはできません。
最終的には、神様だけが『公義な裁判』をくだすことができます。
公義な神様の存在を教えて下さり
自分の人生の問題を解決して下さった神様に
心から感謝を捧げます。
誰に何を言われようとも
ひろこママには、いつも自信があります。
自分が何でもできるという自信ではなく、
いつもどこでも
公義な神様が共にしてくださるという自信があります。