つれづれ

あれから8年


どうもこんにちは。
徳島だよりの時間です。

今日は3.11
決して忘れられない日です。

8年前のあの日,東日本大震災が発生しました。
今日は各地で犠牲になった方々への祈りが捧げられました。

私は徳島県民ですが,東日本大震災とは切っても切れない縁がありますので,今回はそのことを書こうと思います。

震災が発生した当時,私は札幌の大学に通う大学生でした。
アルバイト先で地震が発生したことを知った私は,住んでた学生寮に帰り,テレビのニュースに釘付けになりました。
大津波に飲み込まれていく家や自動車
火事が発生して火の海になった町々
とてもこの世のものとは思えない光景に,言葉を失ったのを覚えています。
本当にこんなことが日本で起こっているのか
どこか現実のものとして受け入れられない自分がいました。

その後,私が初めて被災地に足を踏み入れたのは,震災から1年半が経った2012年の9月。
今の仕事の前に勤めていた建設会社の研修の一環で,岩手県山田町のがれき処理場の現場を見学し,沿岸部のがれきを除去するボランティア活動をしました。
そのときにようやく,この震災が実際に起こったものだとして実感することができました。
しかしそのときは,まさか自分が被災地の復興に深く関わることになるとは思いませんでしたが。

それから3年半が経った20164月,私は被災地復興のため,宮城県に派遣されることになりました。
震災の後から,徳島県は宮城県に職員を派遣してきたのですが,まさか自分が派遣されることになるとは想像もしていませんでした。
宮城県では,津波の被害を受けて耕作ができなくなった農地を,再び農業ができるように復旧・復興する仕事をしていました。
想像以上に激務だった復興事業。調子を崩したり倒れたりしていく職員もいたりして,災害からの復興がいかに大変かを実感しました。
震災で犠牲になる人も多かったですが,復興するにもまた犠牲になっていく人々がいるということも知りました。
震災の爪痕は様々な形で,何年もこの地に残り続けているのです。

仕事以外でも,岩手県や福島県などいくつかの被災地を見て回りました。
元々市街地だったけど,震災で跡形もなくなってしまったところもたくさんあり,津波のあまりにも大きな被害に呆然としました。
福島県に至っては,まだ立入りが許可されていない地域もたくさんあり,全く復興が進んでいない状態でした。
今はもう少し多くの地域で避難解除もされていますが,町が元の形を取り戻す日は来るのだろうかと思ってしまうほどでした。

しかし,それでも懸命に前に進もうとしている人たちの姿も見てきました。
農業を復興させて,またこの地域に人々が戻ってくるようにしたいと思い行動している人たち。
新しい地元の特産品を全国に向けて必死でPRする人たち。
農業に限っても,多くの人たちが被災地の未来のために行動しているのです。

コリント第一の手紙1013
「あなたがたの会った試練で,世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか,試練と同時に,それに耐えられるように,逃れる道も備えて下さるのである。」

震災という大きな困難を乗り越えて,被災地がより一層復興していくことを願っています。

トップ写真は2年前の3.16に石巻で撮った写真です。がんばろう石巻看板です。


ABOUT ME
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義高(よしたか)
徳島県で働く地方公務員です。大学生の時に「キリスト教福音宣教会(摂理)」に出会いました。趣味は音楽(ギター、ベース、カホン等)、鉄道、旅行、美味いもの巡り、お笑い、不定期に行なう筋トレ、ラケット系競技など。基本的にのんびりまったりとした人間です。最近のマイブームは卓球、ロシアワールドカップを機にサッカー観戦にもハマりました。地元なので徳島ヴォルティスは応援してます。摂理で出会った人と結婚し、現在はニ男(まーくん、まっきー)の父親です☆