つれづれ

過去よりシリーズ 「朽ちるもの」


朽ちるもの、追い求めるもの

地下鉄に乗りながら、ふとこれらがすべて物質で言えば多くが水分とタンパク質でしかないのだなと考えて見た。
行きかう人の波は彩色に華やぎ始めている。この土地もようやく暖かくなり始めた。
しかしそれらもまた、一緒くたにすれば線維と言う物質でしかない。
様々な顔、顔、顔。人、人、人。
外的嗜好におけるファッションや個々の生まれ持った個性も、物質で捉えた瞬間にそれらは空しく一緒くたに朽ちるものと囚われる。
そういった刹那なる生にあくせくし、一喜一憂し、心乱され、焦がれるというのは疲れることだなと思う。
逆に言えばそういった物質がこの瞬間、生き生きとした生を持って活動していると言うことが奇跡であると見える。その目で見てこそ単なる朽ちてゆく物質が、彩光を放ちだす。「生きる」と言う意味によって。その価値性を人は追うだろう。定められたこの生をいかに価値あるものとして生き抜けるか。人はその不変なる価値を求めてさまよっている。誰でもこの生を価値あるものとしたいと願ってやまない。人はなぜ生まれてきたのか、なぜ死に向かって歩むのか。
物質と生物の違いは何だろう。まさにこうして活動していることに他ならない。では機械も生命体か。否であるならば生命を再びなんと定義しようか。
今日、おごった捉え方をすれば「人が作り出せ得ぬもの」という表現も当てはまるのではないだろうか。もちろん、それは生命の一面を捉えたに過ぎないことは言うまでもないが。
以前に「生物と無生物のあいだ」というセンセーショナルな本が話題をさらった時期があったことが思い出される。今の時代、生命という定義は非常に難しさを帯びている。単に科学的には定義できない。
しかしながら、我々が被造物であることはどうにも疑いないことだろう。否、真の意味で人による創造物などありえぬのである。われわれはただ、発見し、使用し、また利用するだけである。ここに科学の謙虚さを持ちたいと筆者は常々考えるところである。
よって、人がなぜ生まれ、なぜ生き、なぜ死ぬのか。人にわかるはずがない。我々は被造物である。自ら目的を持って生じたわけではない。生じる理由を求めるならば、生じさせたものに理由を求めるべきであろう。
花器が自ら花を選ぶか、主人を選ぶか。それは作り手により、また使い手によるのである。
人はあたかも自然発生として生命を捉える。進化の過程で我々は生じたと。ではそれらは単なる偶然か。もちろん、科学的、歴史的にはそうである。しかしそれはあくまでHOWに答えたに過ぎない。求めているのは、WHYである。意味もなく生じたならばそこに意味を求めるほど空しい徒労はない。だからこそ、自ら意味を生み出そうともがくのが我々の姿か。それが生きる意味なのか。後付で自分を納得させているに過ぎないことだ。
人が人生の中で求めるものについて考えて見た。
地下を流れ行く車窓には、朝の人の顔ばかりが映る。なぜこんなに疲れて見えるのか。自分の目ばかりがぎらぎらして見えた若いころを思い出す。いつも答えを探していた。
生きるために稼ぐ。経済は必須だ。また社会的地位も必要だろう。
物質、名誉、金。
またそれだけでは生きられない。家族、友人、恋人。
多種の人間関係、また趣味や嗜好、時に形のない楽しみもまた求めるだろう。
ではそれらによっては何が満たされるのか。
物質として自らが存在するということ。これはひとつ大きい目的だ。
まずは存在せねばならない。
しかしながら、ときにはその生さえも捧げて求めるものがある。
それによって我々は何を満たそうと言うのか。
真に何を得ようと言うのか。
突き詰めれば愛という言葉以外にそれを表す語彙はない。
誤解して欲しくないのであえて書くが、ここでいう愛とはある意味では肯定という言葉で置き換えてもいいものを指している。
物質を得ることによって真に満たされるものは何か。所有による満足、それを自らのものとして使用する満足、それによって何を得るか。
人が何かを真に得ると認識するのは実は心、精神であろう。
物質と言うツールを通して私たちの心はその瞬間何かを得る。
それは何か、あなたは考えたことがあるだろうか。何ゆえ自分はそれを欲するのかと、真に。
この問いはすべてのものに投げかけることができる。そしておそらくその答えはひとつに集約されるだろう。満たされたい思い、すなわちそこに渇望があるということ。それは何か。自らに問いかける。
あなたは何を真に得ようとして生きているのか。
私は生きていていい。意味があって生きている。
その絶対的な肯定と確信。
それが満たされている人がいるなら私に答えて欲しい。
人はなぜ生きるのか。
搾り出すように聞こえてくる声なき声、うめきが今日も人ごみにかすんで消える。

 


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まりも
人生にさ迷っていた大学院時代に北の大地で摂理に出会い、散り散りだった日々がまりものように丸くまとまり始める。その後、仕事で首都圏へ。湖に帰りたいと泣きながら激務によりいっそう練達され、大分美しい球状に近づいてきた。近年、暑さに弱いのに日本有数の暑さを誇る地に嫁入り。負けじと光合成に励み、子まりもを増殖。3度の流産にもめげずに第二子、第三子を出産。現在は阿寒湖のように懐広い夫と共に三人の男子まりも、まーちゃん、ひーくん、あーたんの育児に奮闘中。