戦争と平和、「被害者」であり「加害者」である日本人(1)特攻隊
今年も終戦の日を迎えた8月15日、
たまたまつけたラジオから、昭和の名曲『戦争を知らない子供たち』が流れてきた
1971年に大ヒットした当時、国民の大多数はまだ戦争を肌で知っていただろう
半世紀が過ぎた今、戦争体験者は減り、日本は「戦争を知らない世代」がほとんどになった
これまで私は「被害者」という観点から戦争をとらえがちだった
空襲や原爆の恐ろしさ、沖縄戦の悲惨さに心を痛め、平和を願う、それが私にとっての「戦争と平和」だった
特攻隊については、書籍や映画、知覧特攻平和会館(鹿児島)に行って、終戦間際の学徒出陣により、優秀な若者たちが死なねばならなかった悲しい現実に心を痛めていた
しかし、ここ数年、認識が変わってきた…
去年訪れたのは、慶應義塾大学の展示館

【慶應義塾史展示館の企画展「ある一家の近代と戦争」】
長野県安曇野で暮らした上原家と、慶應義塾に学び戦争で命を落とした三兄弟(良春・龍男・良司)の記録。出撃直前に「明日は自由主義者が一人この世から去って行きます」と遺書を残した特攻隊員の三男・良司をはじめ、膨大な遺品や資料を通じ、戦争被害の不条理と残された家族の深い悲しみを伝える。
兄弟三人全員が戦死した一家の展示を見ることで、同世代の子供を持つ親として、考えが深くなった
昭和12年、軍務に就く父親に、三兄弟たちが送った手紙と写真、その当時の三兄弟は、大学生、予科生、中学生だった(妹たちは小学生)

戦争が始まる頃に、従軍する父親を見送って「父サン頑張レ」と笑顔で写真を撮った14-15歳の中学生が、終戦直前に学徒出陣により戦死したということは、15歳の中学生の親である私にとって、ぞっとするような事実だった
時には親に反抗し、時には子供のように無邪気に笑う思春期の中学生男子が、戦争が続くうちに軍服を着て戦場に行くのが戦争、という現実がどんと胸の奥に響いた

次男、三男の訃報に続き、陸軍軍医としてビルマ(ミャンマー)に出征していた長男の良春さんも、1945年9月に戦病死していた報せが1946年7月に届き、両親は絶望の中で長男の訃報を受け取ったそうだ….
戦前の教育制度(旧制)は、現在と異なり「修業年限(学校に通う年数)」が長く、小学校卒業と共に社会に出る人も多く、旧制大学への進学率は男性1〜2%(女性は原則大学進学は認められていなかった)。
尋常小学校(6年):6歳〜12歳
旧制中学校(5年):12歳〜17歳
旧制高等学校/大学予科(3年):17歳〜20歳
旧制大学(本科)(3年/医学部は4年)20歳〜23、24歳当時の男性は20歳になると徴兵検査があったが、大学生は徴兵猶予という特権があり、26歳まで兵役が猶予された。
1943年10月、戦況の悪化により、徴兵猶予が停止(理工系・医術系を除く文科系学生)
上原良司さんのように、大学で西洋哲学や自由主義思想を学び、国家の暴走や戦争の理不尽さを冷徹に理解できる知識を持った優秀な若者たちが、特攻隊などの肉弾戦で命を落としていったことが、当時の「学徒出陣の悲劇」の大きさを物語っている。(Geminiより)
三男の上原良司さんは『きけ わだつみのこえ』(日本戦没学生記念会編・岩波文庫等)の冒頭近くに掲載された代表的な手記を残している(文末に抜粋文を掲載)
死の前日に、達筆な字で丁寧に書かれていたのは、器械の一部になって死ぬことへの葛藤、自由主義への憧れと当時の国家情勢、自分が亡き後の新しい日本への希望…
これほどまでに聡明な学生を殺してしまったのは当時の大人、老人たち
学生たちの命を奪うことで彼らが作ったであろう未来の日本も壊してしまった…
(↓写真左上は、出撃当日、左が早稲田大の京谷さん、右が良司さん、右下は出撃直前に軍歌を歌う姿、右は母と次男、三男)

(↑昭和16年の六大学野球、明大戦、立大戦、早稲田戦のチケット、直前まで今と同じ大学生活を送っていたことがわかる)
【以下、Geminiによる主要大学の学徒・学生戦没者数と当時の学生数(推定・概数)】
| 大学名 | 戦没者数(学徒・学生等) | 当時の学生数(目安) |
| 東京帝国大学(現:東京大学) | 約 1,600〜2,000名 | 約 8,000〜9,000名 |
| 京都帝国大学(現:京都大学) | 約 800〜1,000名 | 約 5,000〜6,000名 |
| 早稲田大学 | 約 4,000〜4,500名 | 約 20,000〜25,000名(専門部等含む) |
| 慶應義塾大学 | 約 2,200〜2,500名 | 約 10,000〜12,000名(予科・高等部等含む) |
| 明治大学 | 約 2,000名規模 | 約 10,000〜15,000名 |
(※「学徒動員(学徒出陣等を含む)による大学別の死者数および当時の学生数については、終戦前後の混乱や軍政上の秘匿措置などの影響で、国としての公式な統計が存在しない。現在各大学の創立年史や戦没者名簿などの公表資料で確認できる数値をまとめた一覧だが、基準が異なるため、単純な一覧比較が難しい。」Geminiより)
数は正確ではないとしても、あまりに多くの優秀な学生たちが亡くなったのは事実だし、戦後の日本の復興にもどれほどの痛手だっただろう
戦後、経済は発達して豊かになったけれど、国の未来を作る要となる教育はいまだに旧態依然として問題が山積していることを、中学生と大学生の親として苦々しく思っている
彼らが戦後まで生き延びたなら、今の日本の在り方は変わっていたかもしれない
今を生きる私たちは、未来ある多くの方たちの犠牲の上に、今の平和があることを忘れてはいけないと改めて思った
『きけ わだつみのこえ』より上原良司さんの手記を抜粋
「(前略)空の特攻隊のパイロットは一器械に過ぎぬと一友人が云った事は確かです。操縦桿を採る器械、人格もなく感情もなく勿論理性もなく、只敵の航空母艦に向って吸ひつく磁石の中の鉄の一分子に過ぎぬのです。
理性を以て考へたなら実に考へられぬ事で強ひて考ふれば彼等が云ふ如く自殺者とでも云ひませうか、精神の国、日本に於てのみ見られる事だと思ひます。一器械である吾人は何も云ふ権利もありませんが、只願はくば愛する日本を偉大ならしめられん事を国民の方々にお願ひするのみです。(中略)
飛行機に乗れば器械に過ぎぬのですけれど、一旦下りればやはり人間ですから、そこには感情もあり、熱情も動きます。(中略)
明日は出撃です。(中略)
自由の勝利は明白なる事実に属す。権力主義、父権主義国家は一時的に栄ゆることあるも決して終りの勝利者とはなり得ぬことは明白なる真理である。
我等はこれをナチス・ドイツの壊滅に見る。我が国もまた同じ道を歩みつつあるにあらずや。(中略)
明日は自由主義者が一人この世から去つて行きます。後姿は寂しいかもしれないが心の中は満ち足らへてゐる。
今更何をか言はん。唯願はくは、愛する祖国が将来、真に自由なる、幸福なる国家として甦へらんことを。(中略)
出撃の前夜記す」
※上原良司さん 1945年5月11日、鹿児島県の知覧基地から陸軍特攻隊員として出撃し、沖縄沖で戦死(享年22歳)
(2)に続く











