ふとした瞬間に
こんなふうに書いたって
誰が見るんだろうか
という空しさに襲われることがなくもないです
これはまさしく天敵!サタンの心!!
以前、知恵がなくて回りにそういう想いを
うまく打ち明けられなくて
力を落としてしまったことがありました。
逆に、そう言うサタンの心に攻められていた時
姉妹が
サタンにカメハメ波をうつメールをくれたこともありました(笑)
「かーめーはーめーはあああ」
とね
しかし
鄭明析先生も
ヒトに見せるために行なった訳ではないのです
むしろ隠れた義を
真心を
重んじて下さいます
「自分の義を、見られるために人の前で行なわないように、
注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から
報いを受けることがないであろう。
だから。施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるために
会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。
よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。
それは、あなたのする施しが隠れているためである。
すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は報いてくださるであろう。」
(マタイによる福音書6章1-4節)
そう思うと
いかに自分が人を意識してばかりいて
窮屈な生き方をしているものだと
「また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう。」
(ヨハネによる福音書8章32節)
「主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。」
(コリント人への第二の手紙3章17節)
「だから、自由の律法によってさばかるべき者らしく語り、かつ行ないなさい。」
(ヤコブの手紙2章12節)
「だから、もし子があなたがたに自由を得させるならば、あなたがたは、ほんとうに自由な者となるのである。」
(ヨハネによる福音書8章36節)
「兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。
ただその自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。」
(ガラテヤ人への手紙5章13節)
「自由人にふさわしく行動しなさい。ただし、自由をば悪を行う口実として用いず、神のジ僕にふさわしく行動しなさい。」
(ペテロ第一の手紙2章16節)
北海道で有名なかのクラーク博士の言葉に
「紳士たれ」
というものがあると聞いた事があります。
それが札幌農学校(北海道大学の前身)の校則だったと。
これは実はとても厳しい法です
つまり適当なことしてると
「あなたの紳士と言う水準はこの程度なのか」
と見られる訳です。
集まってるのは当時のエリート。
プライドがあります。
だから細かい法より、自由で厳しく、発展的です。
クラーク博士の教育方針の根底にはキリスト教の流れがあり
その博愛の精神により残されたものも多いと聞いています。
北海道大学の中にある博物館に展示があるのを見た事があります。
北海道旅行の際は、そんな文化に触れてみるのもいいんじゃないでしょうか。
今の我々は「新婦たれ」ですね!
水準上げていかないと↑↑↑