人体、臓器、細胞の機能システムはあまりにも巧妙だ。

一定の破損、エラーに対しての緩衝作用はおろか、自己修復機能まで持っている。
そしてそれらのメカニズムやカスケードが解明されうるごとに、いかにこの見えない小宇宙のシステムがこの大宇宙の法則性と共通性があるかを知ることができる。
ここに真理なる万物共通のシステムがその姿を現すのではないかという大きな期待感があり、今日科学者を駆り立てる無限の好奇心の源となっている。
これらを原子レベルまで落とし込んで物質という側面から見れば、大宇宙の構成物と同じである。
すなわち私たちの持つ小宇宙は大宇宙から発生し、その物質の循環のなかに戻ってゆくという意味で、物質の面では連続したものと捉えることができる。
ところで今度はそれらをシステムという無形物、情報から捉えてみたとき、この情報というものが私たちの社会システムと非常に似ていることに、また気づくようになる。
たとえば、筆者は学生時代に細胞内の物質の運搬、平たく言えば細胞というフィールドの中で物質が何によってどのように移動するか、ということを研究していたのだが、そのシステムや、今日私たちが製品を製造し市場へと循環させていくシステムに非常に似ているのである。
どんなところが似通っているか、もっとも分かりやすいのは、荷札が必要であるという点だ。
細胞内を単純に濃度差によって拡散していく類の輸送とは異なり、選択性のある、つまり行き先と目的地がはっきりしている輸送においては、どこから来てどこへ行くかが分からなければ正しい輸送は起こらない。
あて先不明な荷物は、最終的には細胞内のリサイクル処理所のような働きをする液胞へと輸送されてしまう。
液胞に輸送された荷物は分解酵素によって分解され、新たな合成物の材料へと循環していく。
細胞内の物質の産生からの流れを比較しながら追ってみよう。
核という設計部で設計図にあたるDNAが翻訳され、転写されて製造現場へと設計図が移動する。
製造現場である小胞体で物質が生産され、同じ種類のものが梱包されてひとまとめにされて出て行くように生成物は小胞によって輸送される。
パッケージングされ、商品が完成系に近づくように、輸送によって小器官を経るごとにたんぱく質は修飾という加工を受ける。
中間器官を経て、集められ、目的地に向かって出て行く。
そして目的地に着くと、あるものは家電製品のようにその場所で機能し、あるものは食品のように消費される。
これら社会システムの存在について考えたとき、前提として「人間」の存在が不可欠だ。
「人間」が存在し、その人間が使いやすいように発生し、発達してきたのが現在の社会システムだ。
いわば自然に生じたもののようで必然によって生み出されたといえる。
また、生物のごとく環境の変化、構成物(人)の変化に適応し、いまだ進化し続けている。
ではその人間の内部のシステムはどうだろうか。
そのシステムがなければ人間は存在し得ない。
ゆえに社会的システムも存在し得ない。
人間がそのシステムを必要によって生み出したとすれば、人間のシステムもまた何かしらの必要によって生み出されたものと考えるのは行き過ぎだろうか。
(その必要とは「人間が存在する」ことそのものに他ならないのであるが。)
我々、人間が何かしらの目的、意図によって構築されているひとつのシステム体であり、小社会であるという、このことを私たちの存在自体が証明している。
これらの捉え方には、いささか誇示付けではないかという声も聞こえてきそうである。
たしかにこのことを考える上で我々が忘れてはならないことがある。
それは我々が人間であるということだ。
人間である以上、所詮は人間の知りうる範囲内でしか議論ができないということだ。
何かすでに知識がある状態で、新しいものを学ぼうとする際、人は往々にしてすでに知っている知識と結びつけて考えようとする。
なぜなら知っているものしか知らないからだ。
知らないことについては議論できない。
もし本当にしようとするならば、知らなければならない。
ゆえに我々がそれら未知なる物について未知のままに議論しようとするならば、そのように全体から見てごくわずかな有知な事実、またそこから導き出された現在、真実限りなく近いであろう「真実」という名のものを取り出して、その秤で計ってみるしか方法がない。
このような考えに基づけば、我々が自然界のあらゆる現象に対して自分たちのよく知っているシステムに重ねることでそれらを理解しようとすることは至極当然のことのように思われる。
すると、すべてを人間の認識物に置き換えて理解するため、あれもこれも似ている、となるわけだ。
人間を中心に置いてこの世界をぐるりと見回している。
この手法もまた我々が日々無意識に行っていることだ。
たとえば数学者や科学者は、数字や化学式などの記号に現象を変換し、議論する。
これはその時その対象をそのような記号に軸をすえて見ているといえる。
言葉、歴史、法律、哲学、宗教…。
ありとあらゆるものに軸をすえ、その秤を用いてみる。
ちょうど目の前の空気について、あるときはその組成の化学式と割合的な数値が用いられ、またあるときはそこに流れる時間的な雰囲気を指して文学的に表現されるように、我々は多様な秤でもって日々、理解を展開させている。
目の前の対象を何とか消化しようとさまざまな角度から測って見る。
それは暗闇でその実態を知るべく、手探りでその形をなぞるようなものだ。
見えざるもののその形を、輪郭、感触、温度など、最大限得られる情報から推察するしかない。
このように考えれば、我々が対象としているものは実はたった一つであるということに気づかされてしまう。
どの分野であれ、どの手法を使うにせよ、そこから得ようとしていることはたった一つではないか。
すなわち、真実であり、真理である。我々人間にとっていかにこの隠された真理がその心を捉えてならないのか。
人類の多くの英知、文化、思想がこれを求め続けてきたのだ。それは驚くべきことではないか。
真理。
恋いしむほどにそれとの出会いを思えば、長く長い甘い嘆息が漏れる。
いつも頭を離れることはなく、その思いにとらわれては夜も眠ることはできない。
恋焦がれ、恋焦がれ、焦がれ死ぬ乙女のようだ。
ただし、我々は黙って待っている乙女ではなかった。
雄雄しくも焦がれるならばその思いを満たすべく探し求めるのである。
一体、これほどの情熱的かつ、狂気的な恋を、我々はこの真理への思いの外にこの一生で味わうことがあろうか。
否、我々が言う恋さえもまた、この真理へ向かう大きすぎる恋に飲み込まれているのだ。
我々は一生でもっと難解な大恋愛を、一生かけてしていくのだ。
真理とは何か、誰がそれを知りうるだろうか。
人がその創造主たる神を思うその思いは、まるで永遠な恋だ。
神はわれわれ人類に多くの物質、システムを備えおかれたうえで、その背景にある真理をも知りたいという心まで添えられた。
まるで多くの贈り物とともに、そっと手がかりの名前が残された一枚の手紙が添えられているように。
足長おじさんを思う少女の思いはやがて恋にかわり、その人自身を求めるようになったとき、その贈り物に残された手がかりに気づくのである。
人は創造主から愛を受け、その愛に気づくときそれを求めて歩き出す。
人がそれに気づくまで、創造主は恐ろしいほどの片思いだが、気づいた後は人がその姿、すなわち真理を求めて終わりの見えないその道を行かねばならない。
これに勝る遠距離恋愛はなかろう。なにせ自分を愛してくれたヒトがどこにいるのかも分からないのだから。
創造物に残された手がかりを頼りに我々はさまよう。
人はなぜ学ぶのか、これについて今までにも数々の説明がなされてきたが、果たして真実は何なのか。
その真実を知らずとも、今日も人は自らのうちから沸き起こる「知りたい」という願望に気づかないままに導かれている。
肉体や生活の利便性のように、ただこの体が生きて終わるだけならば、必要のないすべての喜び、関心の方向性はどこから生まれ、どこへ向かうのか。
たとえばファッションがこの肉体を生かすのに必要か。確かに体温調節という意味では「衣」も重要ではあるが、見た目がどうかということは、あくまで生物学的な「生」には直結しない。
しかしながら、人は極限の状態でも、音楽という同じく生物学的な「生」に直結しないものによって、事実生きたりもする。
それはなぜか、強いて言うなら音楽は精神の「食」であるからではなかろうか。
精神的な喜び、精神的な満足感。経済的に裕福になり、生物学的な「生」が脅かされなくなった今日、我々の求めるものは精神の「生」であり、そのための精神の「食」へと変化した。
実際的「食」でさえ、味や見た目といった精神の「食」としての存在が求められている。
考え方によっては、体にいい成分が入っていることでさえも、実際的に健康に効果があるというよりは精神的安心感への作用のほうが大きい。
すなわち体の健康食品であり、情報が付加することで精神の健康食品ともなる。
考えて見てほしい。
あなたが何気なく長年食べ続けているものがある。
それが健康にいいなんてちっとも考えずに、習慣的に食べていたものが、ある日テレビで健康にとてもいいといわれたとしたらどうだろう。
知らないで食べていたときはなんとも思わなかったのに、その情報が付加されることによって、あなたの精神はそれを食べることによって健康へと近づくであろう。
これはある種の自己暗示ともいえる。
しかし事実、「病は気から」は存在する。
この精神の健康が社会的にも認められ、その問題が社会問題まで発展している現在、ますますこの点に関する関心は高まっている。
1999年、WHOの提唱する健康の定義が以下の文章に変わった。
『健康とは身体的・精神的・霊的・社会的に完全に良好な動的状態であり、たんに病気あるいは虚弱でないことではない』
ここであえて先にあげた生物学的「生」について考えて見よう。
これは言い換えると生物学的機能を有しているか否かということだ。
生物学的機能とは多種多様であるが、一番分かりやすいのは代謝、呼吸だろう。
これらの機能は物質を取り込み、循環し、エネルギーを生み出すということだ。
車はエンジンが回っているとき「動いている」といい、ガソリンが入っていてもエンジンが動かなくなると、車自体も動かなくなる。
これが車にとっての「死」だ。
同様に、物質から自らの有するシステムを動かすエネルギーを生み出すことができなくなったとき、生物学的にも「死」ぬ。
また、そのエネルギー生産に必要な物質を取り込むことができなくなったときも、エネルギーが生み出せないのであるから、やはり「死」ぬことになる。
人は呼吸できねば死ぬ。
エネルギーであるATP産生に必要な酸素の供給がなされないからだ。
そういうシステムが、我々の体を維持しているからだ。
よって生物学的「生」とは、そのような肉体維持のためのシステムが機能するか否かと捉えることができる。
これらのシステムが独立したものであれば話は単純だ。
しかし、実際はこれらのシステムと精神、感情、社会、そしてWHOの言葉を借りれば霊も関係するのであるがために話が複雑になる。
ストレスは胃酸の分泌を乱すため、胃酸過多になって潰瘍ができたり、逆に分泌の減少により消化不良を起こしたりする。
ストレスは実際には胃酸の分泌の上流にあるホルモンのバランスに影響している。
ホルモンは脳の視床下部で主にコントロールされているが、その脳でストレスを感じるためだ。
川の上流で汚物を流せば、その影響は下流にまで及ぶ。
人間の脳は川の上流に当たる。
もっと言えば精神は脳で発生し、その精神を治めるのは霊である。

 

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まりも

人生にさ迷っていた大学院時代に北の大地で摂理に出会い、散り散りだった日々がまりものように丸くまとまり始める。その後、仕事で首都圏へ。湖に帰りたいと泣きながら激務によりいっそう練達され、大分美しい球状に近づいてきた。近年、暑さに弱いのに日本有数の暑さを誇る地に嫁入り。負けじと光合成に励み、子まりもを増殖。現在は阿寒湖のように懐広い夫と共に子まりも、まーちゃんの育児に奮闘中。

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