つれづれ

摂理の道を行く


ご無沙汰でした。

あれやこれやと書こうと思う事が
流れて行く日々で
パソコンに向かう事がめっきり減っておりました。

しかしそう言うときこそ、持続力というのが
ものをいうのだなと改めて感じるようになりました。

いいときは、いいじゃないですか

でも
真価というのは
だめな時にこそ出ると思います

鄭明析先生が教えてくださったことのなかで

やる人はどんな状況の中でもやる
どんな状況のなかでもやる人が本当にやる人だ

という話を思い出し
いつも鄭明析先生がだれよりそのようになさっているので

本当に言葉がないです。

いいときはいいです
でも
つらいこと、たいへんなことが
人生ない訳がないです。

摂理に来たから全てハッピーという訳ではないことも
もちろんです

摂理にいるからつらい事も
沢山あります

今日、ある聖書の箇所が目に留まりました。

『こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。

信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。

あなたがたは、弱り果てて意気そそうしないために、罪人らのこのような反抗を耐え忍んだかたのことを、思いみるべきである。

あなたがたは、罪と取り組んで戦う時、まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない。
また子たちに対するように、あなたがたに語られたこの勧めの言葉を忘れている、

「わたしの子よ、
主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。
主は愛する者を訓練し、
受けいれるすべての子を、
むち打たれるのである」。

あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。

だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。

その上、肉親の父はわたしたちを訓練するのに、なお彼をうやまうとすれば、なおさら、わたしたちは、たましいの父に服従して、真に生きるべきではないか。

肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。

すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。

それだから、あなたがたのなえた手と、弱くなっているひざとを、まっすぐにしなさい。

また、足のなえている者が踏みはずすことなく、むしろいやされるように、あなたがたの足のために、まっすぐな道をつくりなさい。

すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。

気をつけて、神の恵みからもれることがないように、また、苦い根がはえ出て、あなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚されることのないようにしなさい。

また、一杯の食のために長子の権利を売ったエサウのように、不品行な俗悪な者にならないようにしなさい。

あなたがたの知っているように、彼はその後、祝福を受け継ごうと願ったけれども、捨てられてしまい、涙を流してそれを求めたが、悔改めの機会を得なかったのである。』
(ヘブル人への手紙12章1~17節)

ヒトの苦しみの多くは、その根本を見るに、自らの心から来るものが
大方である事を知る事ができます。

なぜならば、苦しいと感じるその心自体が自らの心の働きによるものであり

同様の事象によっても、ある人は苦痛を感じず、
また同じヒトであっても、ある時は苦痛となり
ある時は喜びとなるのですから

その事象によるというよりは
それを受け取る側の問題である事が多いことは
自らの経験を振り返ったとき
自ら悟るでしょう。

問題は
苦痛のとき
それに気づく事が難しく
また
苦痛によって
それを認め難いと言う精神状態であることです

だから
頭では分かっているのに
またくりかえしてしまった

また

なぜだかわからないけど心が苦しい

誰かのせいだ

そのような思考に陥って行く事になります

これはある意味
自分の逃れどころ
言い訳を探す行為とも
見る事ができます

しかし
本人は認めません
認めたくないのです。

だから心を清くする事
嘘偽りなく
言い逃れなく
全てを神様に告白して
否、神の前ではすべてが既に明らかであり
隠しようはないが
自ら認める事は

本当に本当に
大切であり
大変な事です

鄭明析先生の人生の手本は
イエス様です。

聖書の通り生きようとなされて
ここまでこられた方です

聖書通りであるかは
その人生が物語る事を
改めて感じます。

本当に清いヒトとは
どういうヒトでしょうか

自ら苦しみが来る私は
この罪の荷を照らし出す
神様の言葉にたえられなくなる事もありますが

悔い改める機会がある今は
あきらめたくないと思えるようになりました

私を愛している神様を悟ったから。

私だけを愛している神様

神様の愛は痛いぐらいガチンコです
だから
その愛で自分によってキズついたこと
はなはだしかったろうなと思うのです

神様の自分に向かう唯一の愛を悟ったら強いです

あきらめないからです

私はそれを
会った事もない鄭明析先生が
自分をどう愛してくださっているのか
神様の愛をそのような状況でどう示してくださってるのか
悟った時に
本当に悟るようになりました。

次回はこの話にしようかと思います。

愛を告白してこそ力がきますね
やはり実践したことだけが残るのだなと感じます。


ABOUT ME
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まりも
人生にさ迷っていた大学院時代に北の大地で摂理に出会い、散り散りだった日々がまりものように丸くまとまり始める。その後、仕事で首都圏へ。湖に帰りたいと泣きながら激務によりいっそう練達され、大分美しい球状に近づいてきた。近年、暑さに弱いのに日本有数の暑さを誇る地に嫁入り。負けじと光合成に励み、子まりもを増殖。3度の流産にもめげずに第二子、第三子を出産。現在は阿寒湖のように懐広い夫と共に三人の男子まりも、まーちゃん、ひーくん、あーたんの育児に奮闘中。