つれづれ

過去の日記より 「生活が讃美」


◎会社の帰り道での悟り。
上司はなんだかんだいってもきっと私に楽しくやりがいもって、前向きに、生き生きと仕事して欲しいんだろうなと感じた。仕事ができる、できないよりも。(経営者としてはもちろんできるほうがいいが)

そう考えたときに、聖書に神様が報いてくださるから肉の主人にも仕えなさいと書いてあるところを思い出して、神様を信じることでいつでも感謝して楽しく前向きに仕事していたら、それだけで証になるよなあと感じた。

だって絶対周りから見て「何であの人はあんなに前向きなんだろう、楽しそうなんだろう」と思われるだろうから。

それは仕事ができる、できないとは関係ないところの話。

もちろんできるに超したことはないが、たとえできなくて怒られてばっかりでも、いつも明るく元気で凹んでなければその強さの根本には何があるのか、周りは絶対疑問だと思う。

だから与えられた環境情況にいつも感謝して前向きで肯定的であることだけでも神様を信じるヒトとしての喜びにあふれた姿として証になるんだなと。

実質的な能力や奇跡や、仕事だけではない。

神様は心を見られるから、神様により頼んで固いその揺れない心は喜んで受け取ってくださるんじゃないか。

それが讃美になるんじゃないかと。

賛美歌と讃美は違う。

讃美は神様を褒め称えることすべて。

栄光を帰することすべて。

だから私の生活すべて、存在自体が讃美になることが望ましい。

それこそ創造目的にかなうこと。

 

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことに感謝しなさい。」

まさにこのことかと。

そうすれば十分証になり、讃美になるのだ。

いつもすべてにおいて創造主、神様を思い、感謝感激すること。

それが人生の根本だ。
何をするかではなくて、どこを見て、どういう心でするか。

今も、この会社に入ったいきさつを思い出して感謝感激し、また能力に応じて育ててくださっていることに感謝感激し、ひたすら天を仰いで喜んで仕事をすれば天国だ。

それが生活に現れれば証になる。

主と生きるとはそういうことなのかな。

帰り道で雪道を見ながら、鄭明析先生がいらしたらここで何をなさりたいかなと考えた。

きっと弟子たちと雪遊びをされたかなと感じた。

それは単純に遊びたいからとかではなくて、結局はそれを通して雪のすばらしさ、その雪を私たちに創造してくださった神様のすばらしさと愛を伝えたいと思うのではないかなと。

すべてにおいてそうなんじゃないかなと。

神様をひたすら愛して従順し、証して生きている鄭明析先生。

先生がなさりたいことはすべてを通してひたすら神様を証し、神様の愛を伝えること。

今はひとりひとりがそのような心情を持って、神様とそのように私たちのために生きてくださった先生の愛を証して、生活すべて、人生すべてで証して生きるべきなんだな、と。


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まりも
人生にさ迷っていた大学院時代に北の大地で摂理に出会い、散り散りだった日々がまりものように丸くまとまり始める。その後、仕事で首都圏へ。湖に帰りたいと泣きながら激務によりいっそう練達され、大分美しい球状に近づいてきた。近年、暑さに弱いのに日本有数の暑さを誇る地に嫁入り。負けじと光合成に励み、子まりもを増殖。3度の流産にもめげずに第二子、第三子を出産。現在は阿寒湖のように懐広い夫と共に三人の男子まりも、まーちゃん、ひーくん、あーたんの育児に奮闘中。